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2019年7月20日 (土)

『トイ・ストーリー4』見ました

『トイ・ストーリー4』を見て、ぬいぐるみっておもちゃとして特別だなあ、と思ったことを書いてみました。別ブログにほぼ同内容の記事もアップしてあります。
※『トイ・ストーリー4』及びシリーズのネタバレも含まれます。ご注意ください。

『トイ・ストーリー3』がとてもきれいに終わったので、そのあとの物語は蛇足ではないか、という危惧があったのですが──ある意味、とても攻めた内容になっていました。
 一つは、
「違う子供のところへ行っても、結局は子供がおもちゃに飽きる時はいつかやってくる」
 ということと、
「おもちゃが『生きている』ということはつまり、『おもちゃ』としてより、一つの生命としての道があるのではないか」
 という問題。『トイ・ストーリー』の三部作は、あくまでもウッディとその持ち主アンディとの関係性のみの閉じた世界の物語だった、というのがわかる。今回はそこから大きく逸脱するわけです。
 ある意味、「おもちゃの死」に関する物語なのですよね、この『トイ・ストーリー4』は。さらにいえば、自ら作ったフォーキーを肌身離さず持っているボニーにとって彼は「お気に入りのおもちゃ」なんだけど、他の人には、なんならフォーキー本人も「ゴミ」以外の何ものでもないという「価値観」の問題まではらんで、攻めているとともに哲学的ですらある展開。
 そして、持ち主のいない「野良おもちゃ」──というより、持ち主から手放されたおもちゃであるボー・ピープと、一度も持ち主がいなかったギャビー・ギャビーの秘めた感情を思うと、切なさがさらに上乗せされる。ボニーからすでに飽きられかけているウッディは、彼女たちとの冒険を通じて、生命を持つおもちゃとして生きる道──彼自身の「生きたい道」というのを選択することになるのです。
 よくよく考えれば「おもちゃ」のほとんどは、いずれ「ゴミ」になってしまう。ゴミになったら、それはおもちゃにとって「死」となるらしい。でも、ゴミ捨て場に行かなければ、あるいは自分で外の世界に逃げ出せば、おもちゃとしては生きられる。しかし、そこで問題なのは、ゴミからおもちゃになったフォーキーには生命が宿るということ。それはいったい、どういうことなの?
 この問いに関しては、ラストにそのままの会話があるのですが、答えは出ないのです。ここまで話を広げれば、そりゃそうなるだろうけど(´ω`;)、それを理屈っぽいと取る人や結論が出ないことに怒る人もいるかもしれない。けど多分、子供にとってはその答えは一番しっくり来るものだ。じゃあ大人はすべてのことがわかるのか、というと、絶対にそうじゃないから。
 そこもまた、大人にとっては哲学的に終わるのです。この「おもちゃの命」と「おもちゃの死」が、人間の生死にも共通する命題だからこそ、ですよね。

 さて、
「『おもちゃ』のほとんどは、いずれ『ゴミ』になってしまう」
 と言いましたけれど、ぬいぐるみってちょっと他のおもちゃと違うな、と思いました。
「他人にとってはゴミだけど、自分にとっては宝物」という、おもちゃとしての価値観を一生まっとうできるかもしれない存在でもある。最初はもちろん、普通のおもちゃですよ。子供が抱きしめたり、持ち歩いたり、一緒に寝たり、ごっこ遊びをしたりする。でも、ぬいぐるみ以外のおもちゃ(もちろん例外もありましょうが)は次第に飽きられて、捨てられたり、捨てられないまでも押入れにしまいこまれたり、大切に思われていても棚にきれいに飾られて定期的に手入れはしてもらえるけど──と昔のように遊んでもらえるのは稀なことです。
 でも、ぬいぐるみだけは、子供の頃と同じように遊んでもらえる可能性が高いおもちゃなんですよね。"ライナスの毛布"じゃないけれど、ぬいぐるみの手触りを精神安定剤にしている大人は少なからずいる。大人になっても枕元に置いたり一緒に寝たり、可能なら持ち歩いたり、悲しい時は抱きしめたり、つらい気持ちを話したりして、支えにしている人っているはずです。
 そのせいでドロドロに汚れたりもするんだけど、布ものなら自宅で洗えます。かわいがりすぎたり洗いすぎたりして、他人からはゴミにしか見えないほどボロボロになったぬいぐるみについては、『愛されすぎたぬいぐるみたち』という写真集まで出ているほどです。

 これは海外のものなので、つまり万国共通ってことですよね。
 さらに言えば、「ぬいぐるみ病院」というものまである。ボロボロになったぬいぐるみを、買った時みたいにきれいに修繕──じゃなくて、治療してくれる病院もあるのです。
 でもちょっと考えてしまった。ぬいぐるみ病院に行くと、表地も中の綿も新しくなる可能性があるんです。見た目は同じなんだけど、ほぼすべてリフレッシュしている、ということは、それは果たして自分のぬいぐるみなんだろうか、と……。
 しかしこれもまた今時な考え方だとは思うのですが、たとえばスマホ──iPhoneなんかは、自分のパソコンとかクラウドにデータをバックアップしておいて、新しい機種にした時はそのデータを使って、前と同じに使えるよう復元する。その段階で新しいiPhoneが「自分のスマホ」になるのです。昨日と同じに変わらず使える。
 ぬいぐるみも、自分とそのぬいぐるみの思い出は自分の心の中に保存してあるわけです。そのデータがある限り、そのぬいぐるみは唯一無二のものであり、ずっと一緒にいてくれる存在として認識するのは容易なのですよね。
 そんなぬいぐるみとウッディたちが出会ったら、どういう感情が生まれるんだろうか。「おもちゃ」をあくまでも子供のものとして描くことからさらに逸脱すると、また世界は広がるはず。そういう物語もちょっと見てみたいけど、ある意味かなり切ないものになりそう……。
 あるいは、「生きているぬいぐるみ」として世間に受け入れられている「山崎ぶたぶた」と出会ったら?
 人に「生きている」ことを知られないように生活しているおもちゃたちにとって、普通の人間のように生きる「おもちゃ」であるぶたぶたの存在ってなんなんだろうか。
『トイ・ストーリー3』を見た時には、まったく考えもしなかったことが、今回浮かんでしまった。そうだった。ぶたぶたってぬいぐるみで、実はおもちゃだったのだ。つまり、それだけ前のは世界が狭かったんですよね。あれはあれでもちろん面白いし、好きかどうかでいえば前の方が好きなんだけど。
 ピクサーの映画は、こうやって感想を書いていると、いろいろな思いが湧いてくるなあ。

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